言友会とわたし ~茨城言友会 2020年9月例会:話題提供資料

はじめに

私は吃音を抱えたまま65年以上生きてきた。

約7年前に茨城言友会に参加し、吃音を考える仲間と出会うことができた。

そしていろいろな視点から吃音を考えることができたことに感謝している。

60歳近くになって症状が悪化し、もう一度吃音について考えなければいけないと思い、情報を探し、茨城言友会の講演会に出会った。

講師坂田さんの話を聞いて心が大きく揺さぶられた。

自分の知らない吃音についての知識・情報が得られた。吃音について自分なりに考えてきたことも決して間違いではないことを確認でき、これならもう一度吃音に向き合えると思った。

吃音についてはそれまで開いたことがなかったインターネットで、薦められた本を買った。

本は届いたもののなかなか開くことはできなかった。1・2週間してようやく本を開くことができた。少しずつ吃音に対する様々な知見を知ることができ、人生の締めくくりのテーマとして考えてゆく事にした。

幼稚園の頃から吃音があり徐々に症状は重くなっていったように思う。

高校・大学と何とか学生生活を続けてきたが、吃音の為将来の展望を持てずにいた。

25歳で吃音の矯正所に通うまでにも自分なりに吃音について考えてきた。

どうしたら言葉が出やすくなるか?人からのアドバイスや自分なりの工夫も試してきたが、結果は惨めなものだった。

矯正所を訪ねた時は一言も発することができず、所長に、君の吃音は重いといわれた

教えていただいたこと 息を吸う お腹に力を入れる 第一音を伸ばす

確かにそれらを意識することで、今まで出ないと思っていた言葉が出る

しかし、それを意識して日常会話を話すことは難しかった。

だが、話すことに対する気持ちが変わった、話すことを避け、自分が言える短い言葉で済ませていたが、相手との会話を想定しながら、流れを考えながら話すようになった。

難発症状を恐れ、黙って場をやり過ごすことをだんだんしなくなった。

何とか就職し、転職を繰り返しながら、福祉の現場で約40年、その内約30年を精神保健福祉の分野で精神保健福祉士として患者さんや家族の支援をしてきた。

精神科医療の分野で、精神保健福祉士(PSW)は、相手とのコミュニケーションなしでは相談支援業務を果たすことができない。相互理解が進んでいかなければ相手との関係性は成立しない。そしてその関係性を築くためのツールの中心は言葉である。

60歳近くなって、吃音の症状が悪化してきた。言葉が出にくくなった。息を吸う、第一音を伸ばす余裕がなくなってきたようで、やっているつもりでもできていなかったのかもしれない。人生の晩年で吃音が悪化してきた諸先輩のことが思い出され、もう一度吃音に向き合わねばならないと思うと気が重かった。そして言友会に出会って現在に至っている。

自分の吃音についてのこれまでの経過を振り返りながら、自分の吃音に対する考えをお話ししたいと思う。

伝えられない 伝わらないつらさ

吃音症状について、当事者はなぜこのようになるのか考え知ろうとする。しかしよくわからないまま周囲からいろいろなことを言われる。でもどう返事をすればよいかわからずつらい思いをした当事者は少なくないと思う。私も言友会に出会う時まで、答えを得ることができず困惑していた。もがきながらもあきらめを感じながらその症状と付き合ってゆく当事者は多いと思う。その結果、自身の吃音症状には辛さを感じ不愉快ながらも、徐々に慣れてゆく。しかし、伝えられない、伝わらない辛さは増してゆくばかりである。

二者関係の中でのつらさ

  • 聞かれたことに、他者と同じように答えられない。わかっていても答えられない。
  • 大事な時に言葉が言えないことから、他者から奇異な目で見られる。吃音だから仕方がないと思ってくれる人は少ない、他者を馬鹿にしているかのように誤解される
  • 自分の気持ちや考えを思うように伝えられない、わかってもらえない
  • 思うように言葉を話すことができず、話したけれど伝わらなかった、誤解された。
  • 誤解を訂正しようとしたが、言葉が出ずに誤解されたままになってしまった。

集団内でのつらさ

  • 言葉を会話の流れの中でタイミングよく発することができないため、グループでの会話に入れないため、皆の中にいても独りぼっちな感じ
  • 集団内で、馬鹿にされる、からかわれたりして仲間に入れてもらえないこともある
  • 自分の吃音症状について、いつも見られている、監視されていると感じると一層話し出しにくくなり、対人緊張が高まる
  • 身体の緊張、こわばりが常態化し、周囲の目に敏感になることでより強くなる
  • 吃音症状によって、自分のことを、伝えたい時に伝えられない。

更には

さらに、吃音者は、吃音症状について、周囲から奇異な目で見られたり馬鹿にされたりからかわれたり、他者からいろいろ言われることが多い。

これらのことで受けた精神的外傷は、個人差はあろうが決して小さくはないと思う。

そしてその後の人生に影響を与えることも珍しくない。

コミュニケーション不全

コミュニケーションとは、互いの考えや感情を表現し理解しあう事であると思う。

人が生きていく上で多くの他者とのコミュニケーションは欠かすことができない。 

そして言葉を話すことは欠くことのできないコミュニケーションツールである。

吃音当事者だからこそのツールの重要性に気づくことが多いと思う。

伝わらない、伝えられないということからコミュニケーション不全という状態に陥る。

他者からの理解を得られにくく、会話を通して進むはずの相互理解が進みにくい。

自分のことを話せたことから得られる満足感も得られない

会話によって他者の考えを知ることができ、他者を理解することができる。

会話の継続により相互理解が進むが、それが難しい。

さらに相互理解が深まることによって得られるはずの、人間の存在に欠かせない安心感を得ることができない。それは自己否定感、生きていても意味がない、自分は役に立たないから必要とされない人間だという考えにもつながる。

また、自分の話に対する周囲の反応に敏感になり、対人緊張が高い時間が長く続く。

いいかえれば、吃音によって人とのつながりが持ちにくくなるといえるだろう。さらに、身近に自分を承認してくれる人がいないという事にもつながる恐れがある。

承認されていないと感じる状況が続くと不安が強くなり、自身の力を発揮することも難しくなる。

当事者同士の人的つながりがないと、孤独・孤立の状態に追い込まれることもある。

また、吃音者の場合、自分が伝えたい内容を自身が十分に整理できていない時点でコミュニケーションを図ろうとすることはとても難しい。

会話をしながら自分の考えをまとめてゆくという過程が吃音症状によってうまく機能出来ないからである。

そして私は、吃音症状そのもののつらさより、他者とのコミュニケーションが思うようにとれないことの方が、重要な問題であると考えるようになった。

当事者だからわかる

我々当事者団体には当事者同士でしかできないことがある。

当事者同士だから、安心して会話が続けられ、自分の体験を整理し考えてゆくことができる。緊張感が減り、孤独感から解放され、理解しあう事ができた喜び、当事者同士苦労の分かち合いや共通の思いを感じられる。

当事者同士だから自然にお互いの生きざまを承認しあえる。

それは人間が存在し続けるのに欠かせない過程であり、当事者をエンパワーメントしてゆくうえで欠かせないものである。当事者同士としてお互いの生き方や考え方を認め合う、自分の思い・考えをそのまま受け入れてもらえることが大きな意味を持つ。

自分の話を否定されたり、いろいろ指摘されることで本人の考えは一時停止する。孤立・孤独した状態では、一時停止したままになってしまう恐れがある。本来そこから紡がれるはずの思考が止まってしまうことになる。本人が自身の物語を語り、吃音について主体的に考えてゆくことができなくなる。

当事者同士、安心して話すことができる場は必要不可欠である。

吃音問題の社会化 

私たちは、過去の辛かった経験から被害者的発想で発言する事が多いように思う。気持ちは理解できるが、そのような視点からの発言でどの程度社会の理解は得られるだろうか?

私たちは、社会の無理解や誤解・偏見、吃音の側面が強調されてその人となりを理解してもらえないなどを訴えることが多い。

では何をわかってほしいのか、何をしてほしいのかそしてそれをどのように伝えるか?

ところで、吃音症状は他者からはどのように見えるか?

多くの他者にとっては当たり前にできる言いたい時に自由に言うということができない奇異な現象。いじめやからかいの対象となり辛いこともあるが、それに対する耐性もできてくる。もちろん耐性を壊してしまうほどの圧力の犠牲になった仲間もいることを忘れてはいけない。しかし、多くの他者は他者なりに吃音症状を理解しようとしてくれていると思う。ただ実際にどのように理解し、接すればいいかということになると非常に難しく困惑しているのではないか。私は、このような人たちは「良心的な無関心」という存在に思える。吃音者に対して意地の悪い見方をする人は、社会の中の一部に過ぎないのであろう。

私はこの「良心的無関心」という多くの人達に対して、吃音当事者からメッセージを発しコミュニケーションをとりたいと考える。そのためには、私たちはどうあるべきなのか?

積極的に働きかけてゆくためには、対話の機会を持ち、対話を続けてゆくことが相互理解には欠かせない。そのためには、吃音症状の改善に取り組む姿勢が求められると考える。

症状の改善に取り組む姿勢を持っていなければ「良心的な無関心」の人々の理解・協力を得ることは難しい。不自由ながらも相手にわかりやすく伝えようとする姿勢を持たなければならない。

私の経験から相手が聞き取ろうと努力しても、私の吃音症状がひどければ聞き取ることはできない。私は、相手の気持ちに感謝しながら、たびたびどうしようもない無力感に襲われ絶望の淵に立たされた。かつての私のように難発がひどく、言葉が出るまで10秒もかかってしまえば、聞こうとする相手の集中力はそれまでは続かない。やっと発した言葉を聞き取ってもらえなったむなしさは当事者でなければわからないであろう。

「やっと出た その言の葉を 受け止めて」という自嘲的な言葉が頭に浮かんだのは、40年位前だったと思う。

聞き取ろうとする相手の気持ちに応えるべく、症状の改善や別な方法で自分の気持ちを伝える努力をするべきである。聞き取ろうとしている相手に対して、何とかして伝える努力をすることは義務ではないかとも思う。

私は、自分がうまく言葉が出ない時、そんな時何も言葉を発せないまま自分を理解してほしいとは思わない。筆談なり自分の主体的な動きによって相手とのコミュニケーションをとりたいと思う。自分の経験などから得られた自分の考えや気持ちは自分が選んだ言葉によってでしか伝わらないと思う。言葉をみがくということもコミュニケーションには欠かせない。

吃音症状の改善と主体性

吃音症状の改善について、様々な考えがありエビデンスが重要視されている。

エビデンスに基づいた治療や指導を受けること以外に当事者の自己治癒力あるいは自然治癒力という側面があるのではないかと思う。

どのような方法であれ、症状の改善に取り組む当事者の姿勢が重要視されると思う。

当事者が主体的に吃音の問題に取り組むことによって、当事者の力がダイナミックに働き自己治癒力が発揮され改善に結びつくのではないかと思う。

一人がひとり自分の物語を語り歩み始める時、当事者が主体的に歩むことで自己治癒力が発揮されると考えることもできるのではないか・

吃音について自分の物語を語ることは意味があり、一人ひとりの物語に沿って、吃音へのアプローチがなされることにより当事者の主体性もより発揮されるのではないか

当事者本人の主体的な活動が求められ、そして当事者が力をつけてゆくためには、当事者に対しての適切な情報提供と一緒に考える仲間と支援者が必要である。

吃音者宣言について

言友会の吃音者宣言では、治す努力の否定という考えが謳われている。私はその当時高校生であった。私が吃音者宣言を知ったのは、言友会に参加してしばらくしてからであった。今から半世紀以上前、吃音の克服のために時間・お金をかけて一生懸命努力をしたが思うような結果を得られなかった先輩たちが吃音者宣言にたどり着いた心境は十分に理解できる。その吃音者宣言で救われた吃音者も多かったと思う。私自身も、「吃音は治るもの、治さなければいけないもの、治らないのは本人の努力が足りないという」風潮の中で悩み苦しんでいた。

吃音者宣言から半世紀以上経過し吃音に対する新たな知見が得られ、少しずつではあるが理解が進んできた現在「治す努力の否定」という考えに固執することには疑問がある。

治るか・治らないかという論争には終止符を打ってもよいのではないか。

治る人もいれば治らない人もいるという現実をそのまま受け止めるのが、当事者としては自然であると思う。

私の今とこれから

私はある程度吃音症状の改善に取り組むことができ、社会人として生活することができた。若いころには生死を考えるほどの孤独感・絶望感の中で過ごした日々もあったが、現在は家族、職場、趣味の世界、友人知人、言友会などに囲まれて、生きている。

ただ、残念ながら日常会話で周囲の人の会話のペースにタイミングよく乗って言いたいことが言えて、相互理解が進むという流れに私は乗ることができない。他者の発した言葉が聞き取れなかったり、意味が分からず聞き返そうと思ってもできない。またその場の雰囲気に違和感を感じていても、わかったようなふりをしてその場にとどまり、その場が終わるのを待っていることが多い。

ある程度吃音が改善されてもこのような状況は生きている限り続くと思われる。

それは障害というほどのものではないが、その息苦しさは一生続くであろう。

当事者同士ならその目に見えない息苦しさについて暗黙の了解が得られ、お互いがそれを共有することで、安心感を持って日々を送ることにつながるのでないかと思う。

全言連新団体設立についての私見

当事者がリーダーシップをとって関係団体とともに新団体設立を目指すという考えには賛成できない。果たしてそのようなことができるのか非常に疑問がある。

当事者がリーダーシップをとることに関係団体の了解を得ることができるのか? 

関係団体とは何を共有するのか、共有できるものとできないものがあると思う。

我々は吃音を治すために生きているのではない。研究・治療は吃音問題の一部に過ぎない。

当事者の抱える生きづらさについて関係団体に共有を求めること難しいだろう。

それぞれの団体の設立目的、問題意識はそれぞれ尊重されなければならない。

その上で共有できる課題については、共に協力しあい解決にあたるという合意を確認しながら、それぞれが活動してゆくのが自然である。

新団体において、当事者団体としての独自性(当事者性)を保つことができるのか?

我々当事者団体には当事者同士でしかできないことがある。

先にも述べたが、そのうちの一つは承認というプロセスであり、当事者をエンパワーメントしてゆくうえで欠かせない過程である。当事者同士としてお互いの生き方や考え方を認め合う、その人の考えを黙って受け入れるという過程である。そこから展開される本人の物語こそが本人にとって最も大事なものではないか、そのような活動を安心して行うことができる場として当事者団体の存在意義があるのではないか?

吃音という問題を抱えてどう生きていくかという問題に、当事者同士のつながりが大きな力になることは間違いない。当事者団体として同じ問題を抱えた仲間にとって自分たちがどのような存在であるべきか常に考えなければならない。

新団体設立に向けて関係団体にはどのような考えをもって、どのように関係団体に働きかけてゆくのか。これまで、関係団体にはどの程度どのような話をしているのか。

どのような見通しを持っているのか? 十分な見通しがあるとは思えないが、きちんとした説明を求めたい。

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